幸せ栗拾い理論とキネステの概念(もてキネステ・・・かもしれない)

昨日のもてキネステの、続き?です。
先日、ひょんなことから、バービー育美さんと「幸せ」についての話をしていました。
私は、「幸せ」のハードルが低すぎる人間です。美味しい=幸せ、きれい=幸せ。今で言えば、今日は天気がよさそう=しあわせ、洗濯が乾きそう=幸せ、ごみを捨てようと投げたらゴミ箱に入った=幸せ・・・など、もう一瞬一瞬が幸せの連続といっても過言ではありません(過言だ)。
で、思うのですが、世の中の幸せじゃないという人の中には、目標設定が高すぎる人がいるのではないでしょうか。
そこにあるじゃん、幸せ。
青い鳥が見つからなくて、帰ってきたら家の鳥かごに居たという「青い鳥」の話を持ち出すまでもなく、よっぽどのことが無い限り、幸せなことがひとつも無い状況というのは、想像しづらいです。
・・・みたいな話をしてたところ、バービー育美さんが一言。
「そうだよ!栗は、落ちてるのを拾うんだよ!!」
なんという素晴らしい例えでしょう。
こういう素敵な発想を投げられると、いくらでも広げられます(ここ参照)。
「・・・そうだね、栗は落ちてるのを拾うんだよね!
だって、木に登って取ろうとしたり、木を蹴って落とそうとしたりしたら、イガに触ったり、落ちてきたり当たったりして、痛いもんね!
栗は落ちてるのを拾えばいいんだよ、気をつけるのは落ちてる場所を知ってることと、落ちてるタイミングで取りに行くことと、栗をイガから出す方法と食べられそうな栗はどれかを見分ける知識という能力が自分にあることだけだよ!!」
育美さんとはここまでの時点で、駅前の立ち話なのにお互い大興奮。「つかさん、これブログに書きなよ!」となったのですが、実はその後も広がり続けてました、栗拾い理論。
その続き:
栗を拾って幸せになって、沢山取れたからおすそ分けしたりしてると、「頂いた栗で作ったので、少しですが御礼に」って栗ご飯を作って返してくれる人とかが出てきたりします。もしかしたら、渋皮煮を作ってくれる人も、出てくるかもしれませんよ!!(※渋皮煮大好きなんですが面倒くさくて難しい)。

上の栗の話を、翻訳してみましょう。

幸せは、今ここにあるものを拾うだけです。
ここではないどこかに行こうとしたり、手の届かないところにあるものを取ろうとしたりしても、うまくいきません。
必要なのは、自分の幸せが落ちてる場所とタイミング、幸せを見分ける能力をそなえていることだけです。
小さい幸せに喜んで、人に分けてたら、誰かがその人の幸せを提供してくれて、お互い幸せが増えるかもしれません。

すごいですね、栗拾い理論。
で、なんで上を太字にしたかというと、タイトルに書いちゃいましたが、これもまたキネステティク・クラシックにある「時間、空間、力」の概念と同じなんですね。
キネステの概念って素晴らしい。こんなことにも応用できます。

ということで、もてキネステのモニターさん募集中です。
今日の午前中と月曜日に募集してたのは締め切ってしまったんですが、やってみたいかたが居たらこちらのフォームからお気軽に声をかけてくださーい。


画像探してて「この前のキネステティク・クラシック サポーターレベルのときに里美さんに頂いたはっさく大福の写真、載せてたっけ?」と思ったので、幸せの象徴として載せました(見るだけで涎)


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